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夢中でモノを考える

  • 2009/11/28(土) 03:01:32

夢中になれる何かがある事は良い事だと言う.何かに夢中になれる事は良い事だという.
だがしかし,夢中においてまで,自分も知らない様な単語を使ってバイリンガルで哲学のなんたるのかを語り続けたあげく,何度も起き直してその度に思考を整理して直し,続きを見るような就の仕方はやめておくれ自分!(笑)
だいたい一晩で3-5回は起きるんですが,その度に思考を整理してぼけーっとして付くのを待ち,なんて事をしておりますので,睡眠の質がとんでもなく悪いです,このところ.
でもお陰さまでいくつか当面の見解をえられた事もあります.例えば,単純な文による質問.この世に全く同じものが存在するかどうか.視点解釈と立場で正にその回答は無量大数の如く存在するであろうけれども,それをある程度シンプルな見解にまで絞り込む事が出来た.
次はその得たスタンスを使って,現実の事象の観察にあたり,それが実用に耐えうるかどうかを試すのである.ここで言う実用に耐えうるというのは,それによって精神が安定方向に傾けば可,逆に不安定を招くようであれば不可程度の解釈として頂きたい.あくまで,自己の認識の認識にたいする認識の安定性を図る事が,今の自分の精神状態にとってよかれという憶測が前提にあっての実用試験なのであります.大衆化するかどうかは,その結果次第というわけで.まずは自分が実験台.
ああもう今日もこんな時間.早くなければ.今日こそ何も考えませんように,知らない単語が出て来てモヤモヤしませんように,議論が白熱しすぎて飛び起きませんように,何でも良いので普通にられますように.



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過ぎたるは及ばざるが如し

  • 2009/11/27(金) 03:08:07

困った.実に困った.そう,何といってもネタが多過ぎて書けない!
なので今回は小ネタをブツブツと呟いていくスタイルにしようかと思う.
まずは前回,天使と悪魔に触れた件で,一つ,最も重要な事を書き忘れておりました.それは主人公の乗り回す車について!劇中に出て来るポリースカーが殆どアルファ159なのはまぁいいでしょう.
それよりも主人公が乗せられる車がランチアデルタなんですよ!ウチのシビックの後釜として,お値段を除いてパーフェクトと言って良いあの車.
実はお金さえあればランチアテージスに結構魅力を感じてたり,リブラでも乗れたら面白そうだなぁ,と密かに思っているのですけれど,いかんせんAT限定となるとリブラはモノが無いし,テージスはお値段が高過ぎます.
ああ,でもいいなぁ,ランチア.あのデザインは魅力的過ぎると言ってもまだ足りません.現行デルタについてはパッケージングも素晴らしいと思うのですが,とりあえず鹿児島にディーラー作ってください.直ぐ乗りに行きますから!
そんなわけで天使と悪魔,矢印を追うストーリーよりも,私はむしろ劇中の車を追っておりました.
まいった!小ネタ一つがこんなに長いものになろうものとは!
さて次の小ネタいきます.決して物理的には長いと言えない親鸞歎異抄,わずか50p少々のものを既に数日かけて読んでおります.別に深く深く読み砕いているから,というわけではなく,単にちょっと読んでは寝て食べて,またちょっと読んでは寝て食べて,を繰り返しているだけなのですが.
この本の最も面白いところは,それが読まれるだけで良いというところにあると思うのです.読んで読み手があれこれと思索する事もなく,哲学に耽る事もなく,余分な知識が増える事も無く,余計な念が産まれる事も無く,難しい事を考える事も無く,ただただ書いてある事を読めば良い.その後にも何も特別な儀式も,読んだ事を気に留めておく事も,ましてや振りかえる必要すらない.
だったらこの本は何も語らないのかと問われれば,否それは全くの逆だと答えるけれども,ただただ語るだけなのである.至極わかりやすい言葉で,至極単純に,至極簡素に.
ハイデガーがこれを読んで何を思ったのかまでは,まだ彼の書に触れる機会が殆ど無いので,推測する術も無いが,これは少なくとも西洋でしばしば見られるタイプのいかなる哲学書とも,宗教書とも違う何かを宿している.しかもそれは難題ではあるが決して難解では無い.そこにあえて,外部からの見地を加えて何かを言うのであれば,浄土真宗というものの向かうところが見える書である.ともあれ,不思議な書だ.
しまった!まさか小ネタその2もこんなに長くなるなんて!
よし小ネタその3は気合いを入れてどうでもいい話題にするぞっ!一昨日の昼過ぎ頃の話.あまりにも眠いのでちょっと昼寝しようと思って横になると,それからわずか小一時間の間に 3回も金縛りに襲われました.一体僕が何をしたというのでしょうか.1-2回目は両手,最後は腰を双子に押さえられて,君は右ね,あなたは左ねって会話が聞こえるんですよ(怖)いやー,結局寝られませんでした(笑)
最近起きながら夢を見たり,夢の中の夢の中で知らない英語を使って哲学の何たるかを誰かと議論していたり,ちょっと危ない気がします.どうして自分でも意味のわからない単語が夢の中で平然と飛び交うんでしょうか.
更には時間を問わず起きるといつも夢内での労働を覚えているものだから,起きても起きても労働から覚めた気しかしません.朝起きると既に一日分の思考を終えていて,頭がぼーっとしているという始末.ああ,現実はこっちだぞー!胡蝶の夢,まさかそれが現実にあったとは.
なんだか小ネタその4を書くといつものエントリーより長くなりそうなのでこの辺で今回は幕引きとしたいと思います.どうも,長々とお付き合いいただきまして,ありがとう御座いました.



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ゲーテ,ニーチェ,親鸞,魯迅と来てカフカと解く.その心は?

  • 2009/11/24(火) 02:09:47

本屋に貢ぎ過ぎ.いや,道徳の系譜学を50pぐらいまでペラペラと読んでみたのですが,これは善悪の彼岸を補完するとニーチェ自らの手によって書かれているにも関わらず,ここまでの手応えでは善悪の彼岸の直後に慣性という勢いで読めば,単に読み過ごしてしまいそうなので,その為に何かしらの肉付けを行うべく並走するのが親鸞より歎異抄,魯迅は短編集だけれども,主な目的は故郷と阿Q正伝に狂人日記,カフカよりこれまた難解な訴訟.一見,古典という事以外に関連性の無さそうなこの組み合わせはずばりハイデガーへの道を作るわけです.ではその先は?
一方でその道は複雑に枝分かれし時に退行し融合を繰り返し,ある時ふと思いついたユングの言うところのUnus Mundusの理解とヴェーダにあるブラフマンとアートマンの関係との間に見た何かしらの関連が何であったかと解明する過程に辿り着くための道へと.ただやはり現状圧倒的に足りないのはヴェーダ郡に関する見識と考察.これについては、数年前LAXで迎えのシャトルバスを待っている間に手に入れた,怪しいヒンドゥー系の読めない言語に英語が併記された本が数冊あるだけで,これをどう咀嚼し獲得して行くか,またそこからどう行動範囲を広げるか,それがこれからの課題になりそうである.
今現在の立ち位置からは,歎異抄はヴェーダへの布石,魯迅は東洋的なものと西洋的なものを挑戦的に理解しようする事の文学状での試みの一つとして参考に,またあの時代における日中欧文学という特異点として,カフカは自分がそれをどの程度理解出来るのかを測るために.さて,どう転ぶか.
人間一度節操が無くなると,取り留めがつかなくなるもので,こんな献立に追加して天使と悪魔,それにスタートレックのDVDを借りて来てみました.天使と悪魔については期待通りの期待はずれを一直線.ミステリーとしては正に二作目B級を地で行っておりましたが,もし,映画1作目に相当するキリスト教や数々の陰謀説に関する知識があれば,少しはエンタテインメントとして楽しめるかもしれません.社会的立場としては,前作よりも更にヴァチカンに嫌われた理由が良くわかります.徹底的な原理主義とはやはり,これ見よがしに掲げる為に存在するにもかかわらず,したたかに,忍び寄るのが最も効果的である事もしばしばという事で.または物語全体を現世界へのメタファーとして捉えると,世の中こんなに辛辣に批判されるようなものなのかと,感じざるをえず,脚本家のしたたかな腕に納得はするも,やや小さな人道的見地からの憤りとと共に物悲しさを覚える次第.
スタートレック,これについてはもはや何も語る事はあるまい!コレの為にデカイテレビとBDが欲しい!ついでに旧作も全部DBでお願いします!!わずか2-3のセリフを除けばこれ程哲学的で派手な宇宙ものもないだろう.ヴァルカン星人を考えついた地球人は実はヴァルカン星人でした,なんてオチが現実世界で数世紀後についたりしないかどうか心配になる程である.スポックの感情は最も観るものに映るのである.



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순두부찌개を食べ

  • 2009/11/21(土) 02:10:47

久しぶりにスンドゥブチゲべました.いやぁ,美味しかった.
何かを美味しいと感じながらす事の出来る瞬間は,人生において最も恵まれた瞬間の一つだと,つくづく思うのです.
さておき,これって明らかに韓国料理なのですけれど,べて思い出すのは何故かカリフォルニアなんですよね.
自分の住んでいたエリアが特に韓国人街が近く,そういうお店が多かったからというのが理由なのでしょうけれども,韓国料理べてアメリカが懐かしい.変な感覚です.
でもきっと今,シビックのセダンタイプに乗るとやっぱりアメリカが懐かしく感じるんだろうなぁ.



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自身の哲学の系譜を考える

  • 2009/11/20(金) 02:18:17

善悪の彼岸を通して見た,一種回帰的な体験の源を探るべく,考えを巡らせる事数日.続く道徳系譜学なる,ものものしいタイトルの本に手を出す前に一度,このところ文学作品としては明らかにドイツ的思想に偏り気味である自身の哲学がどのような系譜を持ちうるのか,考察,整理してみようかと思う.
いきなりで恐縮だけれども,ニーチェが言うところの力への意志というのは,数年前の我が身を動かしていた中心的な概念,以外のなにものでもない.その点では,善悪の彼岸を通して得た過去へと至る道で邂逅しうるのは,せいぜいその数年前までがいいところだと,哲学を文字の上で考えた場合,自然とそう結論する事になる.
またニーチェをその後の世代として今,読むにあたって重要な視点となる,ニーチェ以降の哲学思想については,多分にBertrand Russellらによる分析哲学言語哲学の影響を多分に受けている事は明らかである.
では何故,回帰的であるが故に環の始まりでありまた帰結でもあるニーチェよりも前の哲学的概念について,僅かながらとはいえ,自身の中に思うところが存在しえたのだろうか.せっかくなので,ここでもまた善悪の彼岸から例えを出させて頂こうと思う.ニーチェはその若かりし頃にヴァーグナーの音楽へ深く心酔していた事は彼の自著からも明らかな事だが,その理由は単にヴァーグナーの書く音楽が気に入ったから,癒されるから,という半ば現代の音楽的感性からは想像もつかないような,その音楽に対する哲学的考察と期待から成り立っている.即ち,ニーチェの時代における劇としての,古代ギリシャ悲劇精神の再現をもってして,かの哲学の持つ価値を再評価さしめる事が出来るのではないかと,期待したのではないのかと,私個人としては思えるのである.
さて,では今挙げたニーチェの例を自分に当てはめるとしよう.ただし順序を逆にして.自身の場合は,まず音楽に自らの感性的な側面からの価値を見いだし,それを辿る事によって,あくまで二次的要素として,それらに連綿と編み込まれた時代時代の哲学に触れていた事になる.仮に自身にそれを感じる能力があればの話だが.しかし実際に,それまでのおよそ哲学と呼ばれるもの全てに批判と期待を意志を表した天才ニーチェの書を見て,そこにまた古代ギリシャの哲学,否,それは自然哲学として学び取られたものであり,その点では自身の専攻である物理学を哲学的側面から分析した行為がこれを補い,方や宗教倫理の変移とその時代時代の科学技術と詩文との比較を数学的アプローチで行った経験が,自らの,特に指定して言うなればカントによるコペルニクス的転回以前の,西洋における哲学観を構築するのに多大な働きをしていたのだろうと,今にして感じるところなのだ.
哲学と言えば主に言語を主体として語られる,と想像しがちであるけれども,実際はそれは数多の内の表現のひとつに過ぎず,もっとも一般的な例として,およそ芸術というものをこの世の中に見いだす事の出来る二元であれば,大なり小なりその哲学には系譜を認める事が出来るであろう.別に学術論文を書くわけでも無いのに,そのような手間のかかる頭脳労働をする理由としては,より深い自己理解へと到達するための探求のひとつ,という表現に尽きる.
私にとって幸いだったのが,音楽や芸術は哲学とともに文系と言われるように,それらの間に何らかの関連性を見いだす事にさしたる不自然さは無いものの,近代になってわざわざ自然科学という分野で分たれた物理や化け学に至るところまで,かつて上の総てをまとめて自然哲学と呼んでいた事を,割と早くに知る事が出来たところにあると考えている.よって,自分の中では,これらのものは個別でありながら,常に関連性を不自然無く保持する事が可能であり,それは概念という概念に尽く細かくうるさい自らの性分を無駄にする事無く,整合性を保つ事に貢献しているわけである.この,ある意味では進化して来た文明への反抗であるが,この程よく古い思想というのもまた使い勝手が良いのである.
こうして挙げてみると,自身の哲学の系譜は実に広い事に気がつく.まだ挙げては居ないが,ヨーロッパや中国,インド,三大宗教に関わる神話など,もちろんの事日本人たる為の日本的哲学についても,その神話から歴史,文学,芸術といった物を通して得て来たのだろう.特に日本については,長く住んでいた事もあり,何より自身が日本人であるという事もあり,その日本文化というものから得た哲学的発想というものの影響はとても大きい.冠婚葬祭なんてこの歳にもなれば,いくつか経験するものだが,どれを見ても単なる社会的,宗教的儀式または単なる現象として捉えてそのままにしておくには惜しすぎる.思えば自身の父の葬儀の場にて,自らがかつて演奏したベートーベンの月光ソナタ第一楽章を流していた時点で,それがただ単に家族の愛や情以上の物を示していた事に気がつくべきであった.もっとも,その7回忌の頃に気がつけたのであれば,まだマシなのかもしれないと最近は思うようになったが.人間極限の状態になると,鈍る判断力とともに,究極の判断を下す事もあるものなのだ.
さて,またニーチェとヴァーグナーの関係に戻るけれども,自身に取ってのそれは,瀧廉太郎だろう.彼を研究する事で,雅楽を更に遡った神代の音楽から激動の明治日本音楽,そして今日の日本の音楽へと変革を続ける,日本における音楽という概念を通して学び得た,哲学の変革というのもまた,とても面白いものであった.幸いにして,私は瀧に心酔はしたが,当人と面識があったわけでもなく,後に喧嘩別れをしてお互いを罵り合ったりする事もなかったので,ある意味でその旨い汁だけを吸った事にでもなるのかもしれない.ああ,これから道徳を論ぜようというのに,こんな体たらくで良いものなのだろうか!
いやいや,そもそも道徳が高尚なものであり,拝む対象であり,有り難がられるだけのものであるならば,それは単に高尚で,拝まれるだけで,有り難いかもしれないだけの何かに過ぎず,道徳と名乗るには足りないものばかりでは無いのだろうか.
私は常々,この頃の社会の変革の速度に,哲学の方が追いついていないのではないかと心配していたけれども,事ニーチェに限っていえばそれは全くの間違いであったと認めざるを得ない.いや,より正確には,哲学の最先端はニーチェの時点で100年後の世の中まで通用しようなものを作り上げていたが,社会にそれが浸透する事無く,つまりは一般化出来なかったために結局はその飛び抜けて,さもアインシュタインの相対性理論がそのあまりの先進性に当初なかなか受け入れられなかったかのように,その難解さも相まって進んでいるのに,実利として,つまりは,学び盛りの学生に至までが力への意志を感じるのに足る一般教養として浸透しなかったところに問題があると今は考えている.だがしかし,これらの日常の言語と哲学者の言語との間にある問題点についてもウィトゲンシュタインによって半世紀以上も前に指摘されているところであり,それでも尚今もって解決に至る糸口すら見えて来ないというのは,もはや何か見えざる力に拒まれているのか,はたまた学問として行き詰まっては居ないのかと疑り深くなってみたり,あるいは最後には一種の皮肉にすら聞こえて来る.
ひとつ,今の時代にあって哲学というものの分野があまりにも広すぎる事にも問題がある.これは相対性理論が,物理という分野の中の一理論であり,そこから外へ応用適用して行く事で割と早めに何らかの益に繋がった事とは好対照である.では限られた人生という時間を使い,その広すぎる哲学の中から何を学ぶべきなのだろうか?今言える事は,大衆の為の心理を追求する哲学よりも,自身ための哲学を学ぶ方が,案外面白いのではないか,というこれまでいろいろと小難しい本を読んだ末に導きだした推察だ.自分の為の哲学.その集合体を持って大衆の哲学とする.言わば完全トップダウン方式ではなく,ボトムアップ方式を絡め,ミドルレンジあたりで揉まれて大衆化した哲学と,個人単位で持ち続けている哲学の境界線がハッキリした状態というのが望ましいのではないかと.つまりは,ある哲学の所有者の問題である.哲学者に言わせれば,それはその哲学者が何かを言えば,何かをすれば,それはその哲学者の哲学に自然と成りうるわけだけれども,その社会的影響力,最も端的な例を挙げれば書籍などの形態で大衆に広めようとするところにある,有機的と形容したくなるような障壁を逆に,下から上がって来る哲学と交わり反応する場におけるカタリストとして用いる事は出来ないかという案である.
自身の哲学の系譜を振りかえると言えば,何だか仰々しいが,言い換えればこれは単に自身の人生,経験,記憶を哲学という視点から個々の事象に関連性を見いだしつつ,その他内外の出来事との間を結んで系譜の様なものを作っているに過ぎない.例えば,とある学派や正に進化論者の唱える系譜というのは,いかにそれが正確であるかが重要である事が多いが,この個人の事にまつわる系譜については,いかにそれが正確であるかという事よりも,いかにそれが多彩,または純であるかをより評価すべきである.そこから発生するものこそが,真に自らの系譜と呼ばれるものに相応しいのだ!



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サバイバル

  • 2009/11/18(水) 02:10:14

ええと,先週一週間,サバイバルでした.自宅で.主に自室で.
先々週からやや食欲が落ち気味な傾向が続いているなと思っていたのですが,これが先週の火曜日あたりから,目に見えて食欲の低下,体力の低下,目眩,頭痛,吐き気,全身の脱力感,手足の痙攣,肩から首にかけての張り,に加えてパニック症状が寝ても覚めても四六時中,土曜日あたりまで継続して発生しており,その間,食事も座る事も寝る事もままならず,辛うじて一日にカロリーメイト1箱ぐらいでしのいでおりました.月曜には何とかフラフラと歩ける程度までは回復しましたが,体重は案の定47kg台に逆戻り.オマケで睡眠パターンも完全崩壊.2-3時間寝ては起きてというのを繰り返す様.お陰で一晩寝ると,夢を3-4つは覚えております.
現在はだいぶ落ち着きましたが,少し上がり調子だったところに,本人の感覚としては不意打ちを食らったようなところで,なかなか,自身の事ながら難しい事になっているなと感じているところであります.
定石としてだんだんと,精神安定剤の摂取量,強度ともに上がって来ています.ただこちらにも限界がありそうなので,そこへ到達する前に何とか,日常生活が送れるようになるまで回復しておきたいところ.それもまだ他の薬剤との組み合わせを探していたり,当たればラッキーと,宝くじでも引いているような感覚です.
一日でも早く,愛用のトレンチを着て外をフラフラ散歩出来るようになりたいものです.先は長そうですけど,生きてるだけでも儲け物だと,そう思いながら,生きてるんだったら,もう少し欲張ってもと,そのバランスを取りつつ,今後のを探そうかと思います.
素晴らしいものは,目の前にあるんです.ただそれを見たまま素晴らしいと形容しえないところに,自身の中にしこりのある事を,常に感じるのです.Mehr Licht!



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  • 2009/11/13(金) 02:52:31

ハァー・・・・・・
と深くをはく.夜半過ぎ,一日のうちで今が最も生産的な時間である.
砂山というタイトルで一筆書こうと思っていたが,はいたとともに何かも一緒に抜けてしまったようで,すっかりその気が無くなってしまった.
発想はひと呼吸の中にある.思想もしかり.一筆もしかり.
少なくともさっきのひと呼吸で,己が半日練った人間についての考察は自然に還った.
そうだ,今日はこのままでも組んで寝よう.そうしよう.



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三度

  • 2009/11/12(木) 03:08:26

なぜだ,なぜだ,なぜだっ.三度,声に出す.
朝から絶不調の体をベッドの上で芋虫の様に扱いながら,善悪の彼岸を読み終えた後の事.
あれから12時間程が過ぎ去った.私は今悩んでいる.私とこの本の間に起きた奇妙な出来事を,どう表現するべきか.
まずそれは単なる個人的な体験である.ただ,時系列と現象と思考と思索と記憶といったものに関する秩序を見いだす事が大変に困難である事を除けば.
私の感覚という視点から表現するならば,それは前々回のエントリーに書いた高笑いに始まり,善悪の彼岸を読み進める内に,ここ4-5年程の自身の思索の跡を正に逆さに辿っている事に気がついた,という事がそもそもの始まりだった.見事な程に.
よって本書を読み進める内に,次に何が来るのか,どういう風にして来るのか,そういった事が読めて来るようになる.方や,本書からニーチェの意図として明らかに感じられるものの一つが,新時代の哲学への扉であり,駆動力たる事である,というのは疑う余地は無い.
その本を読んでいる今の私の時間は前に進んでいる.本の流れも,当然前へと進んでいる.しかしその前へ進む事が,自身の思索を逆さに辿る,即ち時をさかのぼる行為と奇妙なまでに一致している.
その内にわからなくなるのだ.自分の今を見ているのか,ニーチェの描いた過去からの未来を見ているのか,過去の自分の思索を見ているのか.あるいは究極的には,今どの自分が考えている事なのか.少なくとも,これらの行為が自身にとって等価であると感じられるのであれば,全て正解だろう.
ニーチェの恐るべきところは,この書物がそういう働きをする可能性を見抜き,それをすら書の一部にしているところだ.それは私の場合,もし,自分が今の経験から,この先を書くのであれば,こう書くであろうという事を予測した時に,それと全く同じ事を直後に見続けて、書を読み終えた事が何よりの根拠か.無論,これは大衆,どころか自分以外の誰の根拠足り得ない根拠である.あくまでも今,多少なりとも言語の体を成そうとしているコレは,自身の感覚という視点に基づいている所はご了承願いたい.
随分と不完全なエントリーであるけれども,とりあえず今回はこれぐらいで切り上げようと思う.この事については,あの三度の問いが何だったのか,それを再認識して,その上で他の方面からの見方も加えて熟考するのが相応しいだろう.散歩でもしながら.
何よりもう午前3時を過ぎてしまった.良い子は寝る時間だ.



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  • 2009/11/11(水) 00:40:08

月曜に病院詣りをしたら,すっかりヘトヘトに疲れてしまって,続く火曜も丸一日を休養に当てるハメに.あと2-3時間もあれば,善悪の彼岸を読み切るだろうに,その2-3時間が絞り出せない.ああ,この足かせをはめられた様な状態は,いつも歓迎し難い.それでも発作に襲われるよりかはマシだと,発作中は確実にそう思える.それを考えて,この果てしない堕落感には,ただただ耐え忍ぶのみである.
SSRIジェイゾロフトを利用していますが,これの副作用は自覚がある程度に出ているのですが,本来の目的である治療的効果が今ひとつ.既に服用量は日本での上限である100mg/dayであり,服用開始から1月が経過しようとしております.
の効き目が出るまで数週間,その上でどの程度効くかを見て,相性が悪いようであれば切り替えも視野に.離脱にもある程度の時間がかかり,当然他のといっても同系等である事には変わりなく,そちらの導入もまた等しく手間がかかるのです.とまぁ,とかく時間のかかる事になっております.
ならばと,直近の人生計画などさっさと見直してしまいましょう.とりあえずこの状態では人前で学問をするのは無理でしょう.それどころか会話も危ない.よってまずはこれの治療を最優先課題として,あとは動けるようになった時には技術が鈍っていた,では洒落になりませんので,それを防ぐ策を講じるのが年内の仕事でしょうか.
次いでこの状態で出来る,なるべく生産的な何か,を見つけ出す事.これはまだちょっとアバウトなので少し様子を見ているところですが.それから身辺整理をして,とやる事は沢山ありますね.
久しぶりにカリフォルニアでドライブ中によく聞いてたラジオ局に聴き入っております.幸いにもこれがネット配信も行っておりまして.こちらは深夜,あちらは落ち着いたクラシック音楽の合間に朝の各地のハイウェイの事故渋滞情報が流れるような時刻.ああ,いいなぁ.イイなぁ.



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ふははははは!!

  • 2009/11/09(月) 02:47:48

昨晩,銀魂第31巻を読み終え,人生讃歌を読み終え,ファウストを読み終え,辿り着きましたるはニーチェによります善悪の彼岸
表紙を開き,最初のページをめくり,そして目次を眺めまして,続く序の一段落目に潜んでいたのは不意を突かれての高笑い.ふふふ,ふ,ふはははははは!!
ニーチェもこんな挑発的なタイトルを付けておきながら,のっけから悪い冗談を演じてくれる.これはまるっきり,自分が一昨日の晩に風呂場で考えていた事と全く同じではあるまいか.
どうやら自分の脳内は約一世紀半ほど遅れているらしい.いやニーチェがこの瞬間を見抜いていたのか.もはやここまでくると因果などどうでもよく,ただただ高笑いするのみだ.まったく,悪い冗談だ.
しかしこのアフォリズムという形式は書き手として見た場合には面白く,かつ見る側としても一見するにはいいが,長々と読むにつれて掴み所に困る.特に自身の持ちうる英文学に関する技術に頼り過ぎ,他のヨーロッパ諸言語の流儀に疎いところを自覚する.とは言え,ハイドロのメルセデスに乗ったとでも思ってみれば,案外悪いものでも無いのかもしれない.
その点,後に作者がわざわざこれの補足と称して道徳の系譜学なるものを世に出した事に感謝する.無論,それも既に手元に置いてあり,明日か明後日には手を付ける事になるだろう.こっちは作者の親切心に溢れていそうだから.
実はファウストを読んでいる最中に,次に読むのは神曲だろうと考えていた.強い理由は無い.強いて言うなら知性の連鎖がもたらす直感によってである.このダンテの作も自分にとっては曰く付きのもので,その昔,書店で手に取って,ファウストはとりあえず手元に置いたが,神曲はそのまま棚へ返した.
ファウストを読み終わる頃になって,今再び神曲を手に取ってみた.確かに,自らの選書眼はこれを読めと勧めるが,一方で自分の音楽的感性はいまこれを読んでもつまらないという確信を述べる.神曲たるもの神曲たるべきで,神曲に聴こえない神曲を読むなんて,まっぴら御免だ.よって再び,神曲が神曲に見える日が来るまで,これを保留する事とする.
その時,神曲と同じく探していたのがツァルトゥストラはかく語りきだったのだけれども,残念ながら店頭には無く,そういえば善悪の彼岸も読んでなかったし,気分転換にという塩梅だ.
しかし全くもって節操の無い事をしている.このところ立て続けに坂の上の雲,人間失格,ファウスト程のものを読んだのだ.感想のひとつふたつまとめても良かろうと,ふと思いはするものの,そもそも今している事は読書というよりも,自分の脳味噌の代わりを手繰っているだけであり,感想などというものは,むしろ文章としてよりも,この先何を手繰るかという行動によってより正確に示される.文書としての感想は,後に気が向いて時間のある時にでも書けば良い.そういう意味では,少なくとも脳内において,アフォリズム的な体系を持った思考が為されているとも考えられる.不思議なものだ.
とりあえず明日というより今日は午前中から病院詣り.早くこの心身も何とかせねば,生き方までニーチェに染まりそうだ.ニーチェを読むのはいいが,この作者の生き方に染まるのは御免こうむりたい.寝食を忘れる程こういったにハマるのもいいが,自身に関する勉強は何も哲学だけではない.自分の病気は自分で勉強するしかないのである.医術の力を借りながら.



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