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人格

  • 2010/03/15(月) 20:05:42

なんだかゲシュタルト崩壊でも起こしてるんじゃないか,と思うような心理状態下において,わざわざ人間像人格というものについて考えてみる.まったく,どれもこれもカントのせいだ.
日本語人格と一言に言っても,人格者なんて言葉があるくらいなので,日本語のそれは相当に広い意味を持つことが容易に想像できる.この場においては,人間像と比較するに値する,英語でいうパーソナリティに相当する人格について論じているとしていただきたい.
純粋理性批判を途中まで読んだところで周囲を見渡してみると,この人間像人格という概念にたいして目が行った.というのも,まだ文中でそれらが語られる前に予見として見えてしまったが為に,否が応にも想像力というものの影響下で今自分の得ている思考を操る状態になり,結果としてかつて人格または人間像として定義されていたものの境界線が極めて曖昧な状態になってしまった.
今の状態で個人を見ると,その境界がボヤけて見えるわけである.または個人間の境界線も変にブレンドされてしまっており,とても不思議な気分だ.例えるならAさんはAさんであるけれども,Aさん的要素をBさんの内に見てしまったり,BさんをBさん本体よりも周りのBさん的要素から認識してしまったり.
つまりは,その人がどういう人か,を確定的に認識出来無い状態にある.自分はAさんを何をもってAさんであると認識していたのか,という質問に答えられないわけだ.
さて困った.似た様なところで,自分に対して自己同一性を問うことは多々あるが,人一般に対してその個体性と同一性に疑念を抱く日が来ようとは.
恐らく,カントの他のもう一つの原因は,最近,より高いレベルで自我というものの多重性を認める方向に自分をシフトした事にあるのかもしれない.今の状態でも単純な思考の内的な多重性はまだ論理的に解決する事が可能なのでいいが,自我というより人格に近いものの多様性を活かせるかもと,少し異なった自我達の同時存在を許したことによって,一時的にそれらが認識する対象の差異を、同一の視界の中に見てしまい,結果として一般的な人間像や人格というものへのフォーカスがブレているのではないか,と想像するわけである.
哲学書を読むのは面白いけれども,僕の困ったところは,無意識の内にこうして直ぐに自分を使って実験に走ってしまうところにある.
とりあえず,今こそ"O Romeo, Romeo, wherefore art thou Romeo?"を解釈するのに相応しい時なのかもしれない,なんて一応ポジティブに考えてみる.



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コンパクトの視点

  • 2010/03/14(日) 18:45:55

久しぶりにコンデジを持ち出す.
風邪だ風邪だと言いながら,風のふく中フラリとF810をお供に写真撮影に出かける.
DSCF4783.jpgDSCF4784.jpgDSCF4789.jpg
コンデジ視点は面白い.脇を締めてグッと構えて撮る事の多い一眼に比べて,ついついブラブラと振り回しながら撮ってしまう.
DSCF4798.jpgDSCF4800.jpgDSCF4804.jpg
思えばこのカメラにも随分とお世話になった.日本国内はもとより,二度のオーストラリア行き,韓国,中国,そしてアメリカやギリギリメキシコにも行った.
DSCF4806.jpgDSCF4808.jpg
K10DXacti HD1010のあった頃には,そちらにメインを譲って完全なサブ機と化していたが,今日改めて手に取ってみて,やはりコンデジにはコンデジの世界があるなと感じた.
マニュアル撮影であれこれやり始めると,ついつい一眼と比較してもどかしく思いながらも,コンパクトな一時を過ごしたある日曜の夕方の話.



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超越論的諦め

  • 2010/03/13(土) 23:19:37

人生諦め肝心である.
生きていく間には,実に多様なことが起きる.
そして,それらの全てが解決可能な事であるとは限らない.
即ち,脱出路の極めて限られた諦めの境地へと半ば不可抗力により追いやられる事もあるわけだ.
そこで,上のように悟った気になる事で脱出を試みようとする.
だがそこで,無闇に時間を費やしてアレコレと考える人間も居る.
ちょっと待てよ,諦めることに対してあまりに積極的であることは意思の矛盾ではないか?と.
そこで人生の壁よりも意思の矛盾に困難するものは,そこで実用的な回答を得るべく頑張る.それが誰の得になるんだと思いつつ.
そして一つの諦めへとたどり着く.それこそが超越論的諦めである!
この思考方法は,得に限界を感じたことが主な要因である諦めの場合において有効である.
限界を見る,感じるということは,それ自体が超越的に論ずることが可能な経験である.よって,超越論的諦めへの準備態勢にあると言ってもよい.
では超越論的諦めとは何か?単純に,諦めることを諦めることにある.
少なくとも,こんな事を考えつく人間の内では,諦めは自己に対して一度までなら,ただの自己言及のパラドックスを一個増やすだけで重複可能である.
ああ,意思の矛盾に比べて何と可愛いことか!
ただ間違ってもこれを二度三度とコインを返すように重ねて,パターン化したり,その複雑度を増すようなことをしてはいけない.超越論的諦めは,それが丁度超越論的であるところで最も効率良く働く.
この超越論的諦め論に従って,最初の,人生諦めが肝心である,という諺を解釈してみよう.
すると,何故諦めが肝心という表現であり,諦めが絶対という表現ではないのかが見えてくる.肝心というのは,そういう意味の言葉である.
英語の力をかりるならば,ここでいう肝心とはkeyという解釈が成り立つ.人体にとっての,肝臓,臓のようにその鍵、即ちkeyとなる重要なものという事だ.
つまり,この諺は単純な諦めの推奨とは全く異なった一面を持つ.諦めにも,やり方というものがあるのだ!
無論,全ての場合においてこの超越論的諦めが有効に働くとは限らないが,諦めの一種の形式としてはアリだと思う.
恐らく,僕のような人間がこんな事を真顔で口にすると,いやそれって単に諦めてないだけじゃん,といつものように突っ込まれそうだが,実際のところこの超越論的諦めにおいては,諦めることを諦めているので,諦めというプロセスそのものを捨てているわけではない.
一方で諦めない,という選択は,諦める事を止めるという事であり,諦めるというプロセスが入っていない.
更に,それは単に諦めのすり替えではないか?という批判も考えうるが,それも慎重に諦める事で回避可能である.
ここで注目すべきなのは,諦める対象となる諦めと,諦める事を諦める超越論的諦めが同時にやってくる必然性はなく,むしろ往々にして対象となる諦めへの動機がまず起こり,追って意思の矛盾への反発,そして超越論的諦めへの動機が起こるのである.これは,超越論的諦めの前提の一つが超越論的であるが故に,超越する諦めの存在なしに存在しえない事からも明白である.
最後に,ならばそれは二度の諦めを味わうだけで,諦め疲れするんじゃないか?という疑問も考えられるが,そもそも諦めによる負担というものは千差万別である.また,この諦め方はあくまで方法論であり,選択肢のひとつにすぎず,したがって負担が増えると分かりきっている時にまで、あえて使う必要性は全くない.
更にこの論の面白いところは,超越論的諦めにかかる負担まで,必ずしも対象となる諦めに対して超越的である必要がないことにある.
これは論ずるより何とやらで,今すぐ思考実験が出来る.例えば,今から地球が滅ぶその日までに,太陽まで生身で歩いていく方法を考える事を超越論的に諦めるのは,単にそれを諦めるよりも難しいが,3秒後にキニナルあの子の笑顔を頭の中に思い描く事を超越論的に諦めるのは容易い事である.
しかしながら,やや話が逸れるけれども,このエントリーの最大の問題点となると,お前さんカントを読んでおきながら一体何を論じているんだ?というところにある.
だがこれも自身の超越論的諦めによるところであるのは,言うまでもない.
何故こんな事になったのかと言うと,諦めと意思,心,という事について考えていたときに,たまたまたカントを読んだだけにすぎない.
ともあれ,このところ調子に乗りすぎたのか,少し風邪気味なので今回はあまり小難しい事は考えずに,これくらいにしておこうかと思う.



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暴走

  • 2010/03/11(木) 02:00:58

僕は僕という人間手綱をしっかり握っているか?
最近ちょっと暴走気味じゃないか?
と,自問してみる.
すると,僕というのは困った人間で,たいがいの質問に対しては最低YesとNoとどちらでもない,の三種類ぐらいの回答をよこす.
どれが本音なんだよ,と聞かれても,どれも頭に浮かんだだけだよ,程度のものでしかないかもしれないし,どれも本音かもしれない.めんどくさい奴だ.
そんな性分の人間が自問自答なんて笑わせる,と思いつつも,たまにはこうする事も必要なのだ.
跳ねている心を少し落ち着かせると無意識の内に,はぁ,と溜息が出る.安堵の溜息か.何に安堵しているのだろう.
今年のiBSの卒業論文発表の内に,言葉という一文があった.
記憶に残っている限りでは,僕は人生の中で最低一度,そのを完全に誤って振り下ろした事がある.一度振り下ろされ凶器となったはもう戻れない事を本心では悟りつつ.
最も傷つけたくない人間を,自らので傷つけてしまう.そこに,む,という意味みなど存在しない.その時の僕の体の表面は,一面だらけで,どこに触れようとも傷つかないはずがなかった.僕はそれで身を守ろうとしていたのか,相手を傷つけようとしていたのか,どちらにしろ,今にして思えばあやまったの使い方だった.
見るからに怠け者で物書きには向きそうに無く,おまけにろくな文才も持ち合わせていないのに,こうしてブログを始めたのは,そういうものへの贖罪の気持ちがあったのかもしれない.二度と,本心に反した刀の使い方をしないように.不必要に鞘からそれを解き放たぬように.
刀は磨かれていればいるほど美しいと,そう思っていたこともあった.その美しい刀で斬りまわる事がどれ程の愉悦感をもたらすのかと.愚かにも.
自らの真にむことを隠してしまうのは,あまりに簡単だ.真なるみは,常に強いものだとは限らないからだ.現実においては,心の中のみよりも,行動というものが,より大きな役割を果たし,そして世界に解釈を与える.
行動から解釈という部分に至るまでには不確定性を含む多様な段階が存在し,また解釈には時間が続く限り,終りというものが存在しない.したがって,真にむままの行動が,真に望むままの解釈へと直接繋がる必然性は無く,それらは往々にして,後になって人間が理解可能な流れを帯びたものへと形を変えていく.
いくらそれが溜め息を生産しようとも,こうして自問自答をするのは,そうした流れを読み,今の自分の心に反映させるためだ.もう二度と過った刀の振り方はしたくない.自分が傷つくことの恐怖は味わったが,今でも人が傷つくことの方がずっと怖い.特に自分の刀では.
見た目の軽薄さでそれを誤魔化すのは,今の世の中そんなに難しいことでは無さそうだが,死ぬまでそんな事を続けていても全くもって面白くない.人間の軽い部分も想い部分も両方自分の器の中に入れてこそ,今までしてきた苦労の甲斐もあるというものだろう.
無駄に悩んでいるわけではない.無駄に生きているわけでもない.だがそれでも僕という人間はよく揺れる.なので僕はこうして時々,辛かったこと,嬉しかったこと,幸せだったこと,苦しかったこと,悲しかったこと,虚しかったこと,有り難かったこと,感動したこと,怒りを覚えたこと,愛したこと,愛されたこと,そんな事を思い出しながら一晩を過ごすのである.
本当はここにお酒の一杯でもあれば最高なのだろうが,今は肝臓で代謝される薬を飲んでいるので自粛中である.



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これでアナタも大連通!

  • 2010/02/23(火) 00:05:44

こんばんは.今日は久しぶりに真面目なネタでいこうかと思います.ずばり大連について!
いつもならここで僕が持論をだらだらと展開するところなのですが,今回に限っては,そんなものより遥かに優れたサイトがありまして,そこのご紹介をさせていただきたく存じます.
その名も大連通(http://www.dalian2.cn/).日本語のサイトですのでご安心を.
大連というと,日本人にとっては歴史的にも地理的にも近いような遠いような不思議な存在という一面がありますが,今の彼の地は中国内でも特に経済発展の著しい場所としての一面もあります.今も昔も,理由はいろいろあれど,大連旅順というのは日本人にもとても馴染みの深い地名だと思うのです.
さておき,そんな今の大連には世界中から大小の企業が押し寄せてきており,また旅順やその近辺の観光地化も同時に目覚しい勢いで進んでいるようです.
しかしながら隣国とは言え,それでも海外海外中国語もなかなか触れる機会が無いし,魅力は感じるけれど,いざ実際に行ってみようと思うと急に敷居が高くなったように感じてしまうもの.そこでこの大連通の出番というわけです.
個人ベースで運営されており,まだまだこれから規模を拡大していくようですが,現状でも大連への一歩を踏み出すには必要十分.などの中国特有の事情についても書かれており,また掲示板などを通じて現地の人と直に,しかも日本語でコミュニケーションが出来るというのは,ここならではの特色ではないでしょうか.大連の情報を日本語で,現地の中国人に聞くことが出来る.素晴らしい世の中になったものです.
僕も以前,iBSの盟友Brandonのエスコートで大連を訪れたことがありますが,とても良い経験でした.でこれでもかとお腹を壊したことを含めて(笑)
本物の中国料理を食べ,本物の中国茶を飲み,中国の生鮮食料品売り場を見たり,デパートに行ってみたり,かつての日本人街を見て回ったり,マッサージを受けたり,伸び盛りの活気に溢れる街並みを楽しんだり,かつての激戦地旅順を訪れたりと,随分と贅沢な思いをしたものだなと振り返ってみて思います.でもそれも現地を知っている人のエスコートがあればこそ,なんですよね.
ふらっと訪れるのも面白いですけれども,どうせなら何かツテを作ってからや下調べ程度はしてから行った方が時間も有効につかえるというもの.それでなくとも,外国の事について日本語で現地の人と直にコミュニケーションを取ってみるのは面白いもの.通常のケースだと言語が壁になる事が多いと思うのですが,ここの管理人さんはなんと鹿児島に留学経験がおありで,日本語もばっちりという事で.何度かメッセージのやり取りもしていますが,全て日本語で,中国語を扱えない自分が恥ずかしく思えるほどです.
というわけで,大連紹介サイト,大連通,ぜひ一度ご覧になってみてください.ああ,隣国中国にはこんな土地があったんだ,と,ニュースや新聞からだけでは見えない中国が,大連が見えてくるかも.



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エネルギーの観点から世界はどこへ向かうのかを考える

  • 2010/02/13(土) 23:52:38

本日2日13日は久しぶりに英語のでのレクチャーを受けた日となった.場所は母校iBS外語学院.日頃使っているのはあくまで英会話であって,講義では無いところはしっかりと分けて考えて行きたい.
ともあれ,そのレクチャーの内容とは太陽光発電に関するもので,スピーカーはIEA Photovoltaic Power Systems Programme(PVPS)イスラエル代表であるYona Siderer氏であった.講義の内容は時間の制限もあって,それほど深い技術的な内容までは踏み込まなかったが,一般にはやや難しいと思える程度のものまではカバーし,かつ科学者として何らかの社会的機能,そして目的を有する機関に見を置くことの意味というものは,十分に聴衆に伝わったのでは無いかと思う.
個人的には今のソーラーセルの層構造や,集光型での熱問題の解決法,またエネルギーの貯蔵について触れたかったが,それよりも現在我々がどのような立場にあり,世界がどういう形をしているのか,太陽光発電の視点から見た世界地図とでも呼べるような内容のレクチャーであった.
なるほど.地理でよくやるやつである.ナントカカントカマップとか言ったが,ナントカカントカマップとしか思い出せない.ここれでそのレクチャーの内容をまるまる書く気はこれっぽちも無い.ただ書くことがあるとすれば,あまりにも多く存在する課題への質問と,そしてそれに対する回答の可能不可能が見せるこの先の現実予想図である.
そもそもイスラエルという国がIEAでしかも再利用可能エネルギーに特化した分野で活動する意図は何か.また日本やドイツなどの太陽発電先進国のそれも何であるか,そういう事々が頭の中を過ぎる.
次世代エネルギー,特に太陽光発電はもう既に途方も無く大きなビジネスになっている.その規模から考えると,近いうちに旧世代の化石燃料を用いるエネルギープラントを駆逐して回るのは恐らくこれになるだろう.ただそれがどのような形で行われるようになるのか,民衆は細心の注意で持って観察し,そして自ら選ぶ権利を持ち,選択しなければならない.より良い未来のためには.
僕もただの一般人だ.エネルギー問題や地球温暖なのような地球規模の問題にはアリほどの力も持たない.ただそれでも出来るのは,自分が次に何をするか選択する事だ.その事を忘れてしまうと,それこそ人である意味が消えてしまう.誰がどういう形で次世代エネルギーを開発するかは知れないし,それがどういう形で市場化されてビジネスになるかもまだ不確定だけれども,結局は大衆という最も不確定な要素が決断において最大の影響力を持っているわけで,そういう点からこの先世界はどこへ向かうのかと考えてしまう.
今までも大衆は時に間違いをおかしつつも,それらは辛うじて修正可能な規模のものだった.だから人類は今まで生きながらえてきた.では果たして今度の選択もそうであると誰が言えるだろうか?真実は自分の目で確かめるしか無い.



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過ぎたるは及ばざるが如し

  • 2009/11/27(金) 03:08:07

困った.実に困った.そう,何といってもネタが多過ぎて書けない!
なので今回は小ネタをブツブツと呟いていくスタイルにしようかと思う.
まずは前回,天使と悪魔に触れた件で,一つ,最も重要な事を書き忘れておりました.それは主人公の乗り回す車について!劇中に出て来るポリースカーが殆どアルファ159なのはまぁいいでしょう.
それよりも主人公が乗せられる車がランチアデルタなんですよ!ウチのシビックの後釜として,お値段を除いてパーフェクトと言って良いあの車.
実はお金さえあればランチアテージスに結構魅力を感じてたり,リブラでも乗れたら面白そうだなぁ,と密かに思っているのですけれど,いかんせんAT限定となるとリブラはモノが無いし,テージスはお値段が高過ぎます.
ああ,でもいいなぁ,ランチア.あのデザインは魅力的過ぎると言ってもまだ足りません.現行デルタについてはパッケージングも素晴らしいと思うのですが,とりあえず鹿児島にディーラー作ってください.直ぐ乗りに行きますから!
そんなわけで天使と悪魔,矢印を追うストーリーよりも,私はむしろ劇中の車を追っておりました.
まいった!小ネタ一つがこんなに長いものになろうものとは!
さて次の小ネタいきます.決して物理的には長いと言えない親鸞歎異抄,わずか50p少々のものを既に数日かけて読んでおります.別に深く深く読み砕いているから,というわけではなく,単にちょっと読んでは寝て食べて,またちょっと読んでは寝て食べて,を繰り返しているだけなのですが.
この本の最も面白いところは,それが読まれるだけで良いというところにあると思うのです.読んで読み手があれこれと思索する事もなく,哲学に耽る事もなく,余分な知識が増える事も無く,余計な念が産まれる事も無く,難しい事を考える事も無く,ただただ書いてある事を読めば良い.その後にも何も特別な儀式も,読んだ事を気に留めておく事も,ましてや振りかえる必要すらない.
だったらこの本は何も語らないのかと問われれば,否それは全くの逆だと答えるけれども,ただただ語るだけなのである.至極わかりやすい言葉で,至極単純に,至極簡素に.
ハイデガーがこれを読んで何を思ったのかまでは,まだ彼の書に触れる機会が殆ど無いので,推測する術も無いが,これは少なくとも西洋でしばしば見られるタイプのいかなる哲学書とも,宗教書とも違う何かを宿している.しかもそれは難題ではあるが決して難解では無い.そこにあえて,外部からの見地を加えて何かを言うのであれば,浄土真宗というものの向かうところが見える書である.ともあれ,不思議な書だ.
しまった!まさか小ネタその2もこんなに長くなるなんて!
よし小ネタその3は気合いを入れてどうでもいい話題にするぞっ!一昨日の昼過ぎ頃の話.あまりにも眠いのでちょっと昼寝しようと思って横になると,それからわずか小一時間の間に 3回も金縛りに襲われました.一体僕が何をしたというのでしょうか.1-2回目は両手,最後は腰を双子に押さえられて,君は右ね,あなたは左ねって会話が聞こえるんですよ(怖)いやー,結局寝られませんでした(笑)
最近起きながら夢を見たり,夢の中の夢の中で知らない英語を使って哲学の何たるかを誰かと議論していたり,ちょっと危ない気がします.どうして自分でも意味のわからない単語が夢の中で平然と飛び交うんでしょうか.
更には時間を問わず起きるといつも夢内での労働を覚えているものだから,起きても起きても労働から覚めた気しかしません.朝起きると既に一日分の思考を終えていて,頭がぼーっとしているという始末.ああ,現実はこっちだぞー!胡蝶の夢,まさかそれが現実にあったとは.
なんだか小ネタその4を書くといつものエントリーより長くなりそうなのでこの辺で今回は幕引きとしたいと思います.どうも,長々とお付き合いいただきまして,ありがとう御座いました.



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自身の哲学の系譜を考える

  • 2009/11/20(金) 02:18:17

善悪の彼岸を通して見た,一種回帰的な体験の源を探るべく,考えを巡らせる事数日.続く道徳系譜学なる,ものものしいタイトルの本に手を出す前に一度,このところ文学作品としては明らかにドイツ的思想に偏り気味である自身の哲学がどのような系譜を持ちうるのか,考察,整理してみようかと思う.
いきなりで恐縮だけれども,ニーチェが言うところの力への意志というのは,数年前の我が身を動かしていた中心的な概念,以外のなにものでもない.その点では,善悪の彼岸を通して得た過去へと至る道で邂逅しうるのは,せいぜいその数年前までがいいところだと,哲学を文字の上で考えた場合,自然とそう結論する事になる.
またニーチェをその後の世代として今,読むにあたって重要な視点となる,ニーチェ以降の哲学思想については,多分にBertrand Russellらによる分析哲学言語哲学の影響を多分に受けている事は明らかである.
では何故,回帰的であるが故に環の始まりでありまた帰結でもあるニーチェよりも前の哲学的概念について,僅かながらとはいえ,自身の中に思うところが存在しえたのだろうか.せっかくなので,ここでもまた善悪の彼岸から例えを出させて頂こうと思う.ニーチェはその若かりし頃にヴァーグナーの音楽へ深く心酔していた事は彼の自著からも明らかな事だが,その理由は単にヴァーグナーの書く音楽が気に入ったから,癒されるから,という半ば現代の音楽的感性からは想像もつかないような,その音楽に対する哲学的考察と期待から成り立っている.即ち,ニーチェの時代における劇としての,古代ギリシャ悲劇精神の再現をもってして,かの哲学の持つ価値を再評価さしめる事が出来るのではないかと,期待したのではないのかと,私個人としては思えるのである.
さて,では今挙げたニーチェの例を自分に当てはめるとしよう.ただし順序を逆にして.自身の場合は,まず音楽に自らの感性的な側面からの価値を見いだし,それを辿る事によって,あくまで二次的要素として,それらに連綿と編み込まれた時代時代の哲学に触れていた事になる.仮に自身にそれを感じる能力があればの話だが.しかし実際に,それまでのおよそ哲学と呼ばれるもの全てに批判と期待を意志を表した天才ニーチェの書を見て,そこにまた古代ギリシャの哲学,否,それは自然哲学として学び取られたものであり,その点では自身の専攻である物理学を哲学的側面から分析した行為がこれを補い,方や宗教倫理の変移とその時代時代の科学技術と詩文との比較を数学的アプローチで行った経験が,自らの,特に指定して言うなればカントによるコペルニクス的転回以前の,西洋における哲学観を構築するのに多大な働きをしていたのだろうと,今にして感じるところなのだ.
哲学と言えば主に言語を主体として語られる,と想像しがちであるけれども,実際はそれは数多の内の表現のひとつに過ぎず,もっとも一般的な例として,およそ芸術というものをこの世の中に見いだす事の出来る二元であれば,大なり小なりその哲学には系譜を認める事が出来るであろう.別に学術論文を書くわけでも無いのに,そのような手間のかかる頭脳労働をする理由としては,より深い自己理解へと到達するための探求のひとつ,という表現に尽きる.
私にとって幸いだったのが,音楽や芸術は哲学とともに文系と言われるように,それらの間に何らかの関連性を見いだす事にさしたる不自然さは無いものの,近代になってわざわざ自然科学という分野で分たれた物理や化け学に至るところまで,かつて上の総てをまとめて自然哲学と呼んでいた事を,割と早くに知る事が出来たところにあると考えている.よって,自分の中では,これらのものは個別でありながら,常に関連性を不自然無く保持する事が可能であり,それは概念という概念に尽く細かくうるさい自らの性分を無駄にする事無く,整合性を保つ事に貢献しているわけである.この,ある意味では進化して来た文明への反抗であるが,この程よく古い思想というのもまた使い勝手が良いのである.
こうして挙げてみると,自身の哲学の系譜は実に広い事に気がつく.まだ挙げては居ないが,ヨーロッパや中国,インド,三大宗教に関わる神話など,もちろんの事日本人たる為の日本的哲学についても,その神話から歴史,文学,芸術といった物を通して得て来たのだろう.特に日本については,長く住んでいた事もあり,何より自身が日本人であるという事もあり,その日本文化というものから得た哲学的発想というものの影響はとても大きい.冠婚葬祭なんてこの歳にもなれば,いくつか経験するものだが,どれを見ても単なる社会的,宗教的儀式または単なる現象として捉えてそのままにしておくには惜しすぎる.思えば自身の父の葬儀の場にて,自らがかつて演奏したベートーベンの月光ソナタ第一楽章を流していた時点で,それがただ単に家族の愛や情以上の物を示していた事に気がつくべきであった.もっとも,その7回忌の頃に気がつけたのであれば,まだマシなのかもしれないと最近は思うようになったが.人間極限の状態になると,鈍る判断力とともに,究極の判断を下す事もあるものなのだ.
さて,またニーチェとヴァーグナーの関係に戻るけれども,自身に取ってのそれは,瀧廉太郎だろう.彼を研究する事で,雅楽を更に遡った神代の音楽から激動の明治日本音楽,そして今日の日本の音楽へと変革を続ける,日本における音楽という概念を通して学び得た,哲学の変革というのもまた,とても面白いものであった.幸いにして,私は瀧に心酔はしたが,当人と面識があったわけでもなく,後に喧嘩別れをしてお互いを罵り合ったりする事もなかったので,ある意味でその旨い汁だけを吸った事にでもなるのかもしれない.ああ,これから道徳を論ぜようというのに,こんな体たらくで良いものなのだろうか!
いやいや,そもそも道徳が高尚なものであり,拝む対象であり,有り難がられるだけのものであるならば,それは単に高尚で,拝まれるだけで,有り難いかもしれないだけの何かに過ぎず,道徳と名乗るには足りないものばかりでは無いのだろうか.
私は常々,この頃の社会の変革の速度に,哲学の方が追いついていないのではないかと心配していたけれども,事ニーチェに限っていえばそれは全くの間違いであったと認めざるを得ない.いや,より正確には,哲学の最先端はニーチェの時点で100年後の世の中まで通用しようなものを作り上げていたが,社会にそれが浸透する事無く,つまりは一般化出来なかったために結局はその飛び抜けて,さもアインシュタインの相対性理論がそのあまりの先進性に当初なかなか受け入れられなかったかのように,その難解さも相まって進んでいるのに,実利として,つまりは,学び盛りの学生に至までが力への意志を感じるのに足る一般教養として浸透しなかったところに問題があると今は考えている.だがしかし,これらの日常の言語と哲学者の言語との間にある問題点についてもウィトゲンシュタインによって半世紀以上も前に指摘されているところであり,それでも尚今もって解決に至る糸口すら見えて来ないというのは,もはや何か見えざる力に拒まれているのか,はたまた学問として行き詰まっては居ないのかと疑り深くなってみたり,あるいは最後には一種の皮肉にすら聞こえて来る.
ひとつ,今の時代にあって哲学というものの分野があまりにも広すぎる事にも問題がある.これは相対性理論が,物理という分野の中の一理論であり,そこから外へ応用適用して行く事で割と早めに何らかの益に繋がった事とは好対照である.では限られた人生という時間を使い,その広すぎる哲学の中から何を学ぶべきなのだろうか?今言える事は,大衆の為の心理を追求する哲学よりも,自身ための哲学を学ぶ方が,案外面白いのではないか,というこれまでいろいろと小難しい本を読んだ末に導きだした推察だ.自分の為の哲学.その集合体を持って大衆の哲学とする.言わば完全トップダウン方式ではなく,ボトムアップ方式を絡め,ミドルレンジあたりで揉まれて大衆化した哲学と,個人単位で持ち続けている哲学の境界線がハッキリした状態というのが望ましいのではないかと.つまりは,ある哲学の所有者の問題である.哲学者に言わせれば,それはその哲学者が何かを言えば,何かをすれば,それはその哲学者の哲学に自然と成りうるわけだけれども,その社会的影響力,最も端的な例を挙げれば書籍などの形態で大衆に広めようとするところにある,有機的と形容したくなるような障壁を逆に,下から上がって来る哲学と交わり反応する場におけるカタリストとして用いる事は出来ないかという案である.
自身の哲学の系譜を振りかえると言えば,何だか仰々しいが,言い換えればこれは単に自身の人生,経験,記憶を哲学という視点から個々の事象に関連性を見いだしつつ,その他内外の出来事との間を結んで系譜の様なものを作っているに過ぎない.例えば,とある学派や正に進化論者の唱える系譜というのは,いかにそれが正確であるかが重要である事が多いが,この個人の事にまつわる系譜については,いかにそれが正確であるかという事よりも,いかにそれが多彩,または純であるかをより評価すべきである.そこから発生するものこそが,真に自らの系譜と呼ばれるものに相応しいのだ!



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Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen

  • 2009/10/17(土) 16:58:27

先日テレビでどこかの選挙に関する報道を見ていた時の事.候補者が次から次へと画面を右から左へ流れる中,ついこの前誕生したばかりの鳩山政権に対する評価が,近いうちに行われる選挙で問われると言わんばかりに,民主が勝つか自民が勝つかと捲し立てる.
それだけなら別に気にも止めなかったのだろうけれども,流れてたBGMがモーツァルトのK.626,レクイエムからDies iræ.選挙報道という真面目な放送に対して誠に失礼ながら,不意をつかれて思わず大笑い.これは曲の意味を知りながら狙ってやった皮肉なのか,それとも単に曲の雰囲気だけで選んだなら尚皮肉だな,と.
曲自体は有名な事もあってテレビ等でしばしば耳にしますけど,特にこの時期の選挙報道に使うには皮肉でも無い限り,ちょっと配慮に欠けていたかなと.Dies iræは怒りの日とも訳されますが,平たく言えばキリスト教の言う世界の終末の日,その恐ろしさを歌ったものです.審判が下され,天国行きか地獄行きかが決まる.
選挙も勝てば天国,負ければ地獄って事でしょうか.それとも早速この前誕生したばかりの鳩山政権に対する審判を仰いでいるのでしょうか.どちらにしろちょっと演出過剰な気がします.音だけを聞くと盛り上がるし,いいんです.でも選挙報道のBGMに終末思想を歌った怒りの日という題の曲を使うってのは,どれだけ後ろ向きなんですか,と突っ込みたくなる.
同じモーツァルトネタでもう一つ.NHKクインテットという名の子供向け音楽番組をやっているのですが,これがなかなか良く出来ていて面白いです.クインテットという名の通り,子供向けにクラシックを上手く小さくアレンジして,10分という番組枠の中で楽しませてくれます.
先日もそろそろニュースでも観ようかと早めにテレビを付けたところ,この番組をやっていたのでチャンネルを止めて観ておりました.その日の曲目はモーツァルトの魔笛から,夜の女王のアリア.あの有名な二曲目の方です.数あるオペラ音楽の中でも特に,ソプラノの超絶技巧を駆使したコロラトゥーラが他にはない魅力の名曲.単純に音を聴いていて楽しいのです.
クラシックを聴くなら一度は聴いておきたいマスターピースである事は間違い無いでしょう.その意味ではNHKが子供向けに選曲した理由もわかります.ただ元がオペラで当然歌詞付きなのですが,それは省かれてインストゥルメンタルなアレンジがなされておりました.
理由は言わずもがな,日本では夜の女王のアリアという名で通っているこのアリアの名はDer Hölle Rache kocht im meinem Herzen.日本語では,復讐の炎は地獄のように我が心に燃え.歌詞の内容は更に過激で,実の娘に宿敵を殺せと命じて,さもなくば永遠に勘当じゃ!と呪いの声で歌うもの.はい,とても子供向け番組の選曲とは思えません.
ただそれで,この曲の音楽的素晴らしさを子供に楽しんでもらう事を諦めないのがNHK.歌詞を省いて印象的なコロラトゥーラの部分をソプラノで残しつつ,それ以外をインストゥルメンタルな構成にする事で,音の魅力をさして削ぐ事無く,子供にも楽しめるような出来になっていたところに,思わず唸ったひと時でした.
同じモーツァルトなんだけどなぁ・・・・・・



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ポリシーに反するのですけれど

  • 2009/09/30(水) 00:27:03

だらだらと更新していたのも,はや一月も昔の話.気がつけばFC2の広告表示されている始末.しかも帰国してからどうにも書く事に覇気がない.
当ブログ最初のエントリーがいきなり帯状疱疹にかかりまして,何て事実とは裏腹に,呼んだ人間が落ち込んだり,不当に不快に感じる様な愚痴や不調はなるべく書きたく無い,というポリシーを持って今まで運営してきたつもりではあります
今回のエントリーはそのルールを完全に破るものであります.読んで健康になる事はまずありません.今の自分が抱えている病の話についてです.後ろ向きな事を書くつもりはありませんが,これより以下を読まれる方は,決して前向き一事が万事ハッピーというわけにはいかないのをご了承ください.
それがこうもヘトヘトの運営になるという事は,ずばり不調が続いているからなのであります.各方面からいろいろと心配だというお声をいただく様にもなってしまい,このまま無言を貫くのも返って失礼かと思いまして,現状を少し書いてみる事にしました.
遡る事三ヶ月と少し,アメリカから帰国してからというもの,どうにも腑に落ちない感じの体調不良が続いておりました.例えば2-3週間に一度,発作的に風邪様の症状に襲われてその後数日発熱が続いて行動出来なくなったり,車の運転中に急に発作に襲われてパニック状態寸前までなったり,就寝前のベッドの上で急に不安が襲って来て何時間も苦しんだりと,そういう状態が特にこの1月程毎日の様に続いております.
いずれの場合も主に左腕から胸部に気になる諸々の症状が出ていたので,循環器特に狭心症を疑ってみたのですが今のところシロ,一方で発作の頻度が短くなるにつれて目眩も耳鳴りも目立つ様になったし,意識が飛びそうな事もあるからと脳神経を疑ってみるも脳MRIではマッシロ.腹痛については以前から過敏性腸症候群(IBS)によりある程度まで調子が悪くなるのはよくある事なので判断は難しいけれども,急な変化は感じられないし,そもそもIBSが致命的な何かになるというのは一般的には考えられない話.
そういった症状に暫く耐えながら生活をしてきましたが,ついに外出が困難な程の過度な不安とストレス,心身症,食欲の低下,一事が万事全て熊に襲われるか墜落中の飛行機の中に居続けるか,火事場のど真ん中に放り込まれたか,大震度地震の真っ最中かと疑いたくなる様なパニック様の症状が観測される様になった上に,送られて来たメールを見る事も,返信する事もまるで意識して行う事が出来なくなってしまう始末.
最後には1週間のうち5日はベッドの上で過ごすという,御歳25にしてはまるで悪夢の様な状態でありました.
それが少し改善を見たのがつい昨日の事.いろいろな科の病院を巡り巡って最後には胸のあたりで内出血を起こしたんじゃないかと感じるようなパニック寸前の状態で脳MRIを受けて辿り着いたのが,不安障害,あるいはパニック障害といった類いのものである可能性が高い,という仮説.
その仮説に基づいて,現在弱めのベンゾジアゼピン系マイナートランキライザーを処方してもらい,様子を見ている所です.
パニック様の状態になる時にはだいたい一人である事が多く,第三者的な観点がまだ不足しているかとは思いますが,帯状疱疹を痛み止めすら使わずに耐えきったくせに,今や夜中安静にしていたのに突然襲って来る発作と死の恐怖で救急車を呼びたくなる程の葛藤の末,タクシーで夜間診療に駆け込むという有様.実際,狭心症や心筋梗塞の症状と素人目には判断がつきにくいので,余計にパニックになる要素があるわけです.
結果として,今は自宅で静養をしているという状態なのです.どうも一朝一夕で治りますよ,という感じのものではなさそうで,更に不安障害に使われる薬と,過敏性腸症候群に用いられる薬のバランスによっては,新たにセロトニン症候群なる難しい状態になる事もあるらしく,一先ず先に処方された安定剤が効いているように見えるところから,不安障害の治療として今後の計画を立てて行く事になるのでしょう.
1年程前から自分の状態に対して,かなり無茶なスケジュールで動いていたのは承知でしたが,まさか帰国後にこれほど脳機能を壊すとは思っておりませんでした.でもこの3ヶ月ぐらい苦しんだ末に,ようやく少しだけ楽になる方法を見つけましたので,そのキッカケを大事にして,また本来の行動力を取り戻せればと思う次第です.
というわけで,暫くこのブログも流れのゆっくりしたものになりそうです.まずは車を10分以上運転出来る事,近所のスーパーに買い物に出られる事,次に少し離れた鹿児島市までドライブ出来る事.そいういう小さなところから無理を強いずに自然な自分に戻ればいいかなと思っております.怠けはうつを呼ぶので禁物,かといって焦りは不安症状を悪化させるとか言われてますが,そのバランスを思い詰めずに見いだせるかどうか,がカギになりそうです.

蛇足になりますが,もしこういう症状で悩んでなければ今頃マイカーでの旅とスーツと靴でブログは一杯だったかと思われます(笑)
帰国してから車が変わりました.とてもいい車です.近場をトロトロと走るのが今は精一杯ですが,あんたさえ良ければいつでもどこへでも走れるよ?と車が言って来るんですね.エンジンも凄くいいですし,特にアクセルペダルとATの振る舞いについては,文句の付けようが無いくらい運転者の意図を読み取ってくれます.もう少し自分の調子が良くなって,ドライブらしいドライブに出かけられる様になったら,必ず載せます.
これから暫くは足下の落ち着かない,これまで以上にフラフラとしたブログとなりそうですが,たまにいい事を書くかもしれないので,その時はまたよろしくお願い致します.
長くなりましたが,各方面にいろいろとご心配をおかけした事を心からお詫び申し上げます.不安障害はその症状の激しさとは裏腹に,それ自体が生命の危険に関わる事は無く,ドライブ中に発作に襲われたりしない限りは大丈夫なようです.現時点で外出が難しかったりする事もあり,治療に少し時間はかかりそうですが,必ず何とかしてもう一度チャレンジングスピリットを取り戻して来ます,必ず.ではでは.



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