2009年11月24日 (火)
本屋に貢ぎ過ぎ.いや,道徳の系譜学を50pぐらいまでペラペラと読んでみたのですが,これは善悪の彼岸を補完するとニーチェ自らの手によって書かれているにも関わらず,ここまでの手応えでは善悪の彼岸の直後に慣性という勢いで読めば,単に読み過ごしてしまいそうなので,その為に何かしらの肉付けを行うべく並走するのが親鸞より歎異抄,魯迅は短編集だけれども,主な目的は故郷と阿Q正伝に狂人日記,カフカよりこれまた難解な訴訟.一見,古典という事以外に関連性の無さそうなこの組み合わせはずばりハイデガーへの道を作るわけです.ではその先は?
一方でその道は複雑に枝分かれし時に退行し融合を繰り返し,ある時ふと思いついたユングの言うところのUnus Mundusの理解とヴェーダにあるブラフマンとアートマンの関係との間に見た何かしらの関連が何であったかと解明する過程に辿り着くための道へと.ただやはり現状圧倒的に足りないのはヴェーダ郡に関する見識と考察.これについては、数年前LAXで迎えのシャトルバスを待っている間に手に入れた,怪しいヒンドゥー系の読めない言語に英語が併記された本が数冊あるだけで,これをどう咀嚼し獲得して行くか,またそこからどう行動範囲を広げるか,それがこれからの課題になりそうである.
今現在の立ち位置からは,歎異抄はヴェーダへの布石,魯迅は東洋的なものと西洋的なものを挑戦的に理解しようする事の文学状での試みの一つとして参考に,またあの時代における日中欧文学という特異点として,カフカは自分がそれをどの程度理解出来るのかを測るために.さて,どう転ぶか.
人間一度節操が無くなると,取り留めがつかなくなるもので,こんな献立に追加して天使と悪魔,それにスタートレックのDVDを借りて来てみました.天使と悪魔については期待通りの期待はずれを一直線.ミステリーとしては正に二作目B級を地で行っておりましたが,もし,映画1作目に相当するキリスト教や数々の陰謀説に関する知識があれば,少しはエンタテインメントとして楽しめるかもしれません.社会的立場としては,前作よりも更にヴァチカンに嫌われた理由が良くわかります.徹底的な原理主義とはやはり,これ見よがしに掲げる為に存在するにもかかわらず,したたかに,忍び寄るのが最も効果的である事もしばしばという事で.または物語全体を現世界へのメタファーとして捉えると,世の中こんなに辛辣に批判されるようなものなのかと,感じざるをえず,脚本家のしたたかな腕に納得はするも,やや小さな人道的見地からの憤りとと共に物悲しさを覚える次第.
スタートレック,これについてはもはや何も語る事はあるまい!コレの為にデカイテレビとBDが欲しい!ついでに旧作も全部DBでお願いします!!わずか2-3のセリフを除けばこれ程哲学的で派手な宇宙ものもないだろう.ヴァルカン星人を考えついた地球人は実はヴァルカン星人でした,なんてオチが現実世界で数世紀後についたりしないかどうか心配になる程である.スポックの感情は最も観るものに映るのである.
一方でその道は複雑に枝分かれし時に退行し融合を繰り返し,ある時ふと思いついたユングの言うところのUnus Mundusの理解とヴェーダにあるブラフマンとアートマンの関係との間に見た何かしらの関連が何であったかと解明する過程に辿り着くための道へと.ただやはり現状圧倒的に足りないのはヴェーダ郡に関する見識と考察.これについては、数年前LAXで迎えのシャトルバスを待っている間に手に入れた,怪しいヒンドゥー系の読めない言語に英語が併記された本が数冊あるだけで,これをどう咀嚼し獲得して行くか,またそこからどう行動範囲を広げるか,それがこれからの課題になりそうである.
今現在の立ち位置からは,歎異抄はヴェーダへの布石,魯迅は東洋的なものと西洋的なものを挑戦的に理解しようする事の文学状での試みの一つとして参考に,またあの時代における日中欧文学という特異点として,カフカは自分がそれをどの程度理解出来るのかを測るために.さて,どう転ぶか.
人間一度節操が無くなると,取り留めがつかなくなるもので,こんな献立に追加して天使と悪魔,それにスタートレックのDVDを借りて来てみました.天使と悪魔については期待通りの期待はずれを一直線.ミステリーとしては正に二作目B級を地で行っておりましたが,もし,映画1作目に相当するキリスト教や数々の陰謀説に関する知識があれば,少しはエンタテインメントとして楽しめるかもしれません.社会的立場としては,前作よりも更にヴァチカンに嫌われた理由が良くわかります.徹底的な原理主義とはやはり,これ見よがしに掲げる為に存在するにもかかわらず,したたかに,忍び寄るのが最も効果的である事もしばしばという事で.または物語全体を現世界へのメタファーとして捉えると,世の中こんなに辛辣に批判されるようなものなのかと,感じざるをえず,脚本家のしたたかな腕に納得はするも,やや小さな人道的見地からの憤りとと共に物悲しさを覚える次第.
スタートレック,これについてはもはや何も語る事はあるまい!コレの為にデカイテレビとBDが欲しい!ついでに旧作も全部DBでお願いします!!わずか2-3のセリフを除けばこれ程哲学的で派手な宇宙ものもないだろう.ヴァルカン星人を考えついた地球人は実はヴァルカン星人でした,なんてオチが現実世界で数世紀後についたりしないかどうか心配になる程である.スポックの感情は最も観るものに映るのである.
2009年11月21日 (土)
久しぶりにスンドゥブ・チゲを食べました.いやぁ,美味しかった.
何かを美味しいと感じながら食す事の出来る瞬間は,人生において最も恵まれた瞬間の一つだと,つくづく思うのです.
さておき,これって明らかに韓国料理なのですけれど,食べて思い出すのは何故かカリフォルニアなんですよね.
自分の住んでいたエリアが特に韓国人街が近く,そういうお店が多かったからというのが理由なのでしょうけれども,韓国料理を食べてアメリカが懐かしい.変な感覚です.
でもきっと今,シビックのセダンタイプに乗るとやっぱりアメリカが懐かしく感じるんだろうなぁ.
何かを美味しいと感じながら食す事の出来る瞬間は,人生において最も恵まれた瞬間の一つだと,つくづく思うのです.
さておき,これって明らかに韓国料理なのですけれど,食べて思い出すのは何故かカリフォルニアなんですよね.
自分の住んでいたエリアが特に韓国人街が近く,そういうお店が多かったからというのが理由なのでしょうけれども,韓国料理を食べてアメリカが懐かしい.変な感覚です.
でもきっと今,シビックのセダンタイプに乗るとやっぱりアメリカが懐かしく感じるんだろうなぁ.
2009年11月20日 (金)
善悪の彼岸を通して見た,一種回帰的な体験の源を探るべく,考えを巡らせる事数日.続く道徳の系譜学なる,ものものしいタイトルの本に手を出す前に一度,このところ文学作品としては明らかにドイツ的思想に偏り気味である自身の哲学がどのような系譜を持ちうるのか,考察,整理してみようかと思う.
いきなりで恐縮だけれども,ニーチェが言うところの力への意志というのは,数年前の我が身を動かしていた中心的な概念,以外のなにものでもない.その点では,善悪の彼岸を通して得た過去へと至る道で邂逅しうるのは,せいぜいその数年前までがいいところだと,哲学を文字の上で考えた場合,自然とそう結論する事になる.
またニーチェをその後の世代として今,読むにあたって重要な視点となる,ニーチェ以降の哲学思想については,多分にBertrand Russellらによる分析哲学や言語哲学の影響を多分に受けている事は明らかである.
では何故,回帰的であるが故に環の始まりでありまた帰結でもあるニーチェよりも前の哲学的概念について,僅かながらとはいえ,自身の中に思うところが存在しえたのだろうか.せっかくなので,ここでもまた善悪の彼岸から例えを出させて頂こうと思う.ニーチェはその若かりし頃にヴァーグナーの音楽へ深く心酔していた事は彼の自著からも明らかな事だが,その理由は単にヴァーグナーの書く音楽が気に入ったから,癒されるから,という半ば現代の音楽的感性からは想像もつかないような,その音楽に対する哲学的考察と期待から成り立っている.即ち,ニーチェの時代における劇としての,古代ギリシャ悲劇精神の再現をもってして,かの哲学の持つ価値を再評価さしめる事が出来るのではないかと,期待したのではないのかと,私個人としては思えるのである.
さて,では今挙げたニーチェの例を自分に当てはめるとしよう.ただし順序を逆にして.自身の場合は,まず音楽に自らの感性的な側面からの価値を見いだし,それを辿る事によって,あくまで二次的要素として,それらに連綿と編み込まれた時代時代の哲学に触れていた事になる.仮に自身にそれを感じる能力があればの話だが.しかし実際に,それまでのおよそ哲学と呼ばれるもの全てに批判と期待を意志を表した天才ニーチェの書を見て,そこにまた古代ギリシャの哲学,否,それは自然哲学として学び取られたものであり,その点では自身の専攻である物理学を哲学的側面から分析した行為がこれを補い,方や宗教倫理の変移とその時代時代の科学技術と詩文との比較を数学的アプローチで行った経験が,自らの,特に指定して言うなればカントによるコペルニクス的転回以前の,西洋における哲学観を構築するのに多大な働きをしていたのだろうと,今にして感じるところなのだ.
哲学と言えば主に言語を主体として語られる,と想像しがちであるけれども,実際はそれは数多の内の表現のひとつに過ぎず,もっとも一般的な例として,およそ芸術というものをこの世の中に見いだす事の出来る二元であれば,大なり小なりその哲学には系譜を認める事が出来るであろう.別に学術論文を書くわけでも無いのに,そのような手間のかかる頭脳労働をする理由としては,より深い自己理解へと到達するための探求のひとつ,という表現に尽きる.
私にとって幸いだったのが,音楽や芸術は哲学とともに文系と言われるように,それらの間に何らかの関連性を見いだす事にさしたる不自然さは無いものの,近代になってわざわざ自然科学という分野で分たれた物理や化け学に至るところまで,かつて上の総てをまとめて自然哲学と呼んでいた事を,割と早くに知る事が出来たところにあると考えている.よって,自分の中では,これらのものは個別でありながら,常に関連性を不自然無く保持する事が可能であり,それは概念という概念に尽く細かくうるさい自らの性分を無駄にする事無く,整合性を保つ事に貢献しているわけである.この,ある意味では進化して来た文明への反抗であるが,この程よく古い思想というのもまた使い勝手が良いのである.
こうして挙げてみると,自身の哲学の系譜は実に広い事に気がつく.まだ挙げては居ないが,ヨーロッパや中国,インド,三大宗教に関わる神話など,もちろんの事日本人たる為の日本的哲学についても,その神話から歴史,文学,芸術といった物を通して得て来たのだろう.特に日本については,長く住んでいた事もあり,何より自身が日本人であるという事もあり,その日本文化というものから得た哲学的発想というものの影響はとても大きい.冠婚葬祭なんてこの歳にもなれば,いくつか経験するものだが,どれを見ても単なる社会的,宗教的儀式または単なる現象として捉えてそのままにしておくには惜しすぎる.思えば自身の父の葬儀の場にて,自らがかつて演奏したベートーベンの月光ソナタ第一楽章を流していた時点で,それがただ単に家族の愛や情以上の物を示していた事に気がつくべきであった.もっとも,その7回忌の頃に気がつけたのであれば,まだマシなのかもしれないと最近は思うようになったが.人間極限の状態になると,鈍る判断力とともに,究極の判断を下す事もあるものなのだ.
さて,またニーチェとヴァーグナーの関係に戻るけれども,自身に取ってのそれは,瀧廉太郎だろう.彼を研究する事で,雅楽を更に遡った神代の音楽から激動の明治日本音楽,そして今日の日本の音楽へと変革を続ける,日本における音楽という概念を通して学び得た,哲学の変革というのもまた,とても面白いものであった.幸いにして,私は瀧に心酔はしたが,当人と面識があったわけでもなく,後に喧嘩別れをしてお互いを罵り合ったりする事もなかったので,ある意味でその旨い汁だけを吸った事にでもなるのかもしれない.ああ,これから道徳を論ぜようというのに,こんな体たらくで良いものなのだろうか!
いやいや,そもそも道徳が高尚なものであり,拝む対象であり,有り難がられるだけのものであるならば,それは単に高尚で,拝まれるだけで,有り難いかもしれないだけの何かに過ぎず,道徳と名乗るには足りないものばかりでは無いのだろうか.
私は常々,この頃の社会の変革の速度に,哲学の方が追いついていないのではないかと心配していたけれども,事ニーチェに限っていえばそれは全くの間違いであったと認めざるを得ない.いや,より正確には,哲学の最先端はニーチェの時点で100年後の世の中まで通用しようなものを作り上げていたが,社会にそれが浸透する事無く,つまりは一般化出来なかったために結局はその飛び抜けて,さもアインシュタインの相対性理論がそのあまりの先進性に当初なかなか受け入れられなかったかのように,その難解さも相まって進んでいるのに,実利として,つまりは,学び盛りの学生に至までが力への意志を感じるのに足る一般教養として浸透しなかったところに問題があると今は考えている.だがしかし,これらの日常の言語と哲学者の言語との間にある問題点についてもウィトゲンシュタインによって半世紀以上も前に指摘されているところであり,それでも尚今もって解決に至る糸口すら見えて来ないというのは,もはや何か見えざる力に拒まれているのか,はたまた学問として行き詰まっては居ないのかと疑り深くなってみたり,あるいは最後には一種の皮肉にすら聞こえて来る.
ひとつ,今の時代にあって哲学というものの分野があまりにも広すぎる事にも問題がある.これは相対性理論が,物理という分野の中の一理論であり,そこから外へ応用適用して行く事で割と早めに何らかの益に繋がった事とは好対照である.では限られた人生という時間を使い,その広すぎる哲学の中から何を学ぶべきなのだろうか?今言える事は,大衆の為の心理を追求する哲学よりも,自身ための哲学を学ぶ方が,案外面白いのではないか,というこれまでいろいろと小難しい本を読んだ末に導きだした推察だ.自分の為の哲学.その集合体を持って大衆の哲学とする.言わば完全トップダウン方式ではなく,ボトムアップ方式を絡め,ミドルレンジあたりで揉まれて大衆化した哲学と,個人単位で持ち続けている哲学の境界線がハッキリした状態というのが望ましいのではないかと.つまりは,ある哲学の所有者の問題である.哲学者に言わせれば,それはその哲学者が何かを言えば,何かをすれば,それはその哲学者の哲学に自然と成りうるわけだけれども,その社会的影響力,最も端的な例を挙げれば書籍などの形態で大衆に広めようとするところにある,有機的と形容したくなるような障壁を逆に,下から上がって来る哲学と交わり反応する場におけるカタリストとして用いる事は出来ないかという案である.
自身の哲学の系譜を振りかえると言えば,何だか仰々しいが,言い換えればこれは単に自身の人生,経験,記憶を哲学という視点から個々の事象に関連性を見いだしつつ,その他内外の出来事との間を結んで系譜の様なものを作っているに過ぎない.例えば,とある学派や正に進化論者の唱える系譜というのは,いかにそれが正確であるかが重要である事が多いが,この個人の事にまつわる系譜については,いかにそれが正確であるかという事よりも,いかにそれが多彩,または純であるかをより評価すべきである.そこから発生するものこそが,真に自らの系譜と呼ばれるものに相応しいのだ!
いきなりで恐縮だけれども,ニーチェが言うところの力への意志というのは,数年前の我が身を動かしていた中心的な概念,以外のなにものでもない.その点では,善悪の彼岸を通して得た過去へと至る道で邂逅しうるのは,せいぜいその数年前までがいいところだと,哲学を文字の上で考えた場合,自然とそう結論する事になる.
またニーチェをその後の世代として今,読むにあたって重要な視点となる,ニーチェ以降の哲学思想については,多分にBertrand Russellらによる分析哲学や言語哲学の影響を多分に受けている事は明らかである.
では何故,回帰的であるが故に環の始まりでありまた帰結でもあるニーチェよりも前の哲学的概念について,僅かながらとはいえ,自身の中に思うところが存在しえたのだろうか.せっかくなので,ここでもまた善悪の彼岸から例えを出させて頂こうと思う.ニーチェはその若かりし頃にヴァーグナーの音楽へ深く心酔していた事は彼の自著からも明らかな事だが,その理由は単にヴァーグナーの書く音楽が気に入ったから,癒されるから,という半ば現代の音楽的感性からは想像もつかないような,その音楽に対する哲学的考察と期待から成り立っている.即ち,ニーチェの時代における劇としての,古代ギリシャ悲劇精神の再現をもってして,かの哲学の持つ価値を再評価さしめる事が出来るのではないかと,期待したのではないのかと,私個人としては思えるのである.
さて,では今挙げたニーチェの例を自分に当てはめるとしよう.ただし順序を逆にして.自身の場合は,まず音楽に自らの感性的な側面からの価値を見いだし,それを辿る事によって,あくまで二次的要素として,それらに連綿と編み込まれた時代時代の哲学に触れていた事になる.仮に自身にそれを感じる能力があればの話だが.しかし実際に,それまでのおよそ哲学と呼ばれるもの全てに批判と期待を意志を表した天才ニーチェの書を見て,そこにまた古代ギリシャの哲学,否,それは自然哲学として学び取られたものであり,その点では自身の専攻である物理学を哲学的側面から分析した行為がこれを補い,方や宗教倫理の変移とその時代時代の科学技術と詩文との比較を数学的アプローチで行った経験が,自らの,特に指定して言うなればカントによるコペルニクス的転回以前の,西洋における哲学観を構築するのに多大な働きをしていたのだろうと,今にして感じるところなのだ.
哲学と言えば主に言語を主体として語られる,と想像しがちであるけれども,実際はそれは数多の内の表現のひとつに過ぎず,もっとも一般的な例として,およそ芸術というものをこの世の中に見いだす事の出来る二元であれば,大なり小なりその哲学には系譜を認める事が出来るであろう.別に学術論文を書くわけでも無いのに,そのような手間のかかる頭脳労働をする理由としては,より深い自己理解へと到達するための探求のひとつ,という表現に尽きる.
私にとって幸いだったのが,音楽や芸術は哲学とともに文系と言われるように,それらの間に何らかの関連性を見いだす事にさしたる不自然さは無いものの,近代になってわざわざ自然科学という分野で分たれた物理や化け学に至るところまで,かつて上の総てをまとめて自然哲学と呼んでいた事を,割と早くに知る事が出来たところにあると考えている.よって,自分の中では,これらのものは個別でありながら,常に関連性を不自然無く保持する事が可能であり,それは概念という概念に尽く細かくうるさい自らの性分を無駄にする事無く,整合性を保つ事に貢献しているわけである.この,ある意味では進化して来た文明への反抗であるが,この程よく古い思想というのもまた使い勝手が良いのである.
こうして挙げてみると,自身の哲学の系譜は実に広い事に気がつく.まだ挙げては居ないが,ヨーロッパや中国,インド,三大宗教に関わる神話など,もちろんの事日本人たる為の日本的哲学についても,その神話から歴史,文学,芸術といった物を通して得て来たのだろう.特に日本については,長く住んでいた事もあり,何より自身が日本人であるという事もあり,その日本文化というものから得た哲学的発想というものの影響はとても大きい.冠婚葬祭なんてこの歳にもなれば,いくつか経験するものだが,どれを見ても単なる社会的,宗教的儀式または単なる現象として捉えてそのままにしておくには惜しすぎる.思えば自身の父の葬儀の場にて,自らがかつて演奏したベートーベンの月光ソナタ第一楽章を流していた時点で,それがただ単に家族の愛や情以上の物を示していた事に気がつくべきであった.もっとも,その7回忌の頃に気がつけたのであれば,まだマシなのかもしれないと最近は思うようになったが.人間極限の状態になると,鈍る判断力とともに,究極の判断を下す事もあるものなのだ.
さて,またニーチェとヴァーグナーの関係に戻るけれども,自身に取ってのそれは,瀧廉太郎だろう.彼を研究する事で,雅楽を更に遡った神代の音楽から激動の明治日本音楽,そして今日の日本の音楽へと変革を続ける,日本における音楽という概念を通して学び得た,哲学の変革というのもまた,とても面白いものであった.幸いにして,私は瀧に心酔はしたが,当人と面識があったわけでもなく,後に喧嘩別れをしてお互いを罵り合ったりする事もなかったので,ある意味でその旨い汁だけを吸った事にでもなるのかもしれない.ああ,これから道徳を論ぜようというのに,こんな体たらくで良いものなのだろうか!
いやいや,そもそも道徳が高尚なものであり,拝む対象であり,有り難がられるだけのものであるならば,それは単に高尚で,拝まれるだけで,有り難いかもしれないだけの何かに過ぎず,道徳と名乗るには足りないものばかりでは無いのだろうか.
私は常々,この頃の社会の変革の速度に,哲学の方が追いついていないのではないかと心配していたけれども,事ニーチェに限っていえばそれは全くの間違いであったと認めざるを得ない.いや,より正確には,哲学の最先端はニーチェの時点で100年後の世の中まで通用しようなものを作り上げていたが,社会にそれが浸透する事無く,つまりは一般化出来なかったために結局はその飛び抜けて,さもアインシュタインの相対性理論がそのあまりの先進性に当初なかなか受け入れられなかったかのように,その難解さも相まって進んでいるのに,実利として,つまりは,学び盛りの学生に至までが力への意志を感じるのに足る一般教養として浸透しなかったところに問題があると今は考えている.だがしかし,これらの日常の言語と哲学者の言語との間にある問題点についてもウィトゲンシュタインによって半世紀以上も前に指摘されているところであり,それでも尚今もって解決に至る糸口すら見えて来ないというのは,もはや何か見えざる力に拒まれているのか,はたまた学問として行き詰まっては居ないのかと疑り深くなってみたり,あるいは最後には一種の皮肉にすら聞こえて来る.
ひとつ,今の時代にあって哲学というものの分野があまりにも広すぎる事にも問題がある.これは相対性理論が,物理という分野の中の一理論であり,そこから外へ応用適用して行く事で割と早めに何らかの益に繋がった事とは好対照である.では限られた人生という時間を使い,その広すぎる哲学の中から何を学ぶべきなのだろうか?今言える事は,大衆の為の心理を追求する哲学よりも,自身ための哲学を学ぶ方が,案外面白いのではないか,というこれまでいろいろと小難しい本を読んだ末に導きだした推察だ.自分の為の哲学.その集合体を持って大衆の哲学とする.言わば完全トップダウン方式ではなく,ボトムアップ方式を絡め,ミドルレンジあたりで揉まれて大衆化した哲学と,個人単位で持ち続けている哲学の境界線がハッキリした状態というのが望ましいのではないかと.つまりは,ある哲学の所有者の問題である.哲学者に言わせれば,それはその哲学者が何かを言えば,何かをすれば,それはその哲学者の哲学に自然と成りうるわけだけれども,その社会的影響力,最も端的な例を挙げれば書籍などの形態で大衆に広めようとするところにある,有機的と形容したくなるような障壁を逆に,下から上がって来る哲学と交わり反応する場におけるカタリストとして用いる事は出来ないかという案である.
自身の哲学の系譜を振りかえると言えば,何だか仰々しいが,言い換えればこれは単に自身の人生,経験,記憶を哲学という視点から個々の事象に関連性を見いだしつつ,その他内外の出来事との間を結んで系譜の様なものを作っているに過ぎない.例えば,とある学派や正に進化論者の唱える系譜というのは,いかにそれが正確であるかが重要である事が多いが,この個人の事にまつわる系譜については,いかにそれが正確であるかという事よりも,いかにそれが多彩,または純であるかをより評価すべきである.そこから発生するものこそが,真に自らの系譜と呼ばれるものに相応しいのだ!
2009年11月18日 (水)
ええと,先週一週間,サバイバルでした.自宅で.主に自室で.
先々週からやや食欲が落ち気味な傾向が続いているなと思っていたのですが,これが先週の火曜日あたりから,目に見えて食欲の低下,体力の低下,目眩,頭痛,吐き気,全身の脱力感,手足の痙攣,肩から首にかけての張り,に加えてパニック症状が寝ても覚めても四六時中,土曜日あたりまで継続して発生しており,その間,食事も座る事も寝る事もままならず,辛うじて一日にカロリーメイト1箱ぐらいでしのいでおりました.月曜には何とかフラフラと歩ける程度までは回復しましたが,体重は案の定47kg台に逆戻り.オマケで睡眠パターンも完全崩壊.2-3時間寝ては起きてというのを繰り返す様.お陰で一晩寝ると,夢を3-4つは覚えております.
現在はだいぶ落ち着きましたが,少し上がり調子だったところに,本人の感覚としては不意打ちを食らったようなところで,なかなか,自身の事ながら難しい事になっているなと感じているところであります.
定石としてだんだんと,精神安定剤の摂取量,強度ともに上がって来ています.ただこちらにも限界がありそうなので,そこへ到達する前に何とか,日常生活が送れるようになるまで回復しておきたいところ.それもまだ他の薬剤との組み合わせを探していたり,当たればラッキーと,宝くじでも引いているような感覚です.
一日でも早く,愛用のトレンチを着て外をフラフラ散歩出来るようになりたいものです.先は長そうですけど,生きてるだけでも儲け物だと,そう思いながら,生きてるんだったら,もう少し欲張ってもと,そのバランスを取りつつ,今後の道を探そうかと思います.
素晴らしいものは,目の前にあるんです.ただそれを見たまま素晴らしいと形容しえないところに,自身の中にしこりのある事を,常に感じるのです.Mehr Licht!
先々週からやや食欲が落ち気味な傾向が続いているなと思っていたのですが,これが先週の火曜日あたりから,目に見えて食欲の低下,体力の低下,目眩,頭痛,吐き気,全身の脱力感,手足の痙攣,肩から首にかけての張り,に加えてパニック症状が寝ても覚めても四六時中,土曜日あたりまで継続して発生しており,その間,食事も座る事も寝る事もままならず,辛うじて一日にカロリーメイト1箱ぐらいでしのいでおりました.月曜には何とかフラフラと歩ける程度までは回復しましたが,体重は案の定47kg台に逆戻り.オマケで睡眠パターンも完全崩壊.2-3時間寝ては起きてというのを繰り返す様.お陰で一晩寝ると,夢を3-4つは覚えております.
現在はだいぶ落ち着きましたが,少し上がり調子だったところに,本人の感覚としては不意打ちを食らったようなところで,なかなか,自身の事ながら難しい事になっているなと感じているところであります.
定石としてだんだんと,精神安定剤の摂取量,強度ともに上がって来ています.ただこちらにも限界がありそうなので,そこへ到達する前に何とか,日常生活が送れるようになるまで回復しておきたいところ.それもまだ他の薬剤との組み合わせを探していたり,当たればラッキーと,宝くじでも引いているような感覚です.
一日でも早く,愛用のトレンチを着て外をフラフラ散歩出来るようになりたいものです.先は長そうですけど,生きてるだけでも儲け物だと,そう思いながら,生きてるんだったら,もう少し欲張ってもと,そのバランスを取りつつ,今後の道を探そうかと思います.
素晴らしいものは,目の前にあるんです.ただそれを見たまま素晴らしいと形容しえないところに,自身の中にしこりのある事を,常に感じるのです.Mehr Licht!



